“文化”によって変わる思いやりの作法──空回りしないために必要な視点って?【TAIRAのノンバイナリーな世界 vol.4】

物事の“組み分け”に焦点を当て、新しい価値観や世界を導き出すTairaの新連載がスタート! 第四弾は、「思いやり/思いやりの空回り」がテーマ。思いやりにも種類があって、純粋な優しさだったり自分のためだったり......過剰な気遣いとの違いってなんだろう。Tairaのノンバイナリーな視点から深掘りする。

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Tairaの臨床モデル学 / Taira's Gender Studies で、モデルの視点から社会を多角的に考察してきたTairaによる新連載「TAIRAの ノンバイナリー な世界」では、日頃から何気なく成り立っている身の回りの「組み分け」に スポットライト を当てる。 曖昧なことやラベルを持たないことに 不安 を抱きがちで、なにかと白黒つけたがる私たち(と世間)だけど、こんなにも多彩な個性や価値観が共生する世界を、ゼロか100かで測れるのか。日常に潜む多くの「組み分け」を仕分けるものさしを改めて観察し直してみると、新しい世界や価値観に気づけるかもしれない。 モデルでライターのTairaが物事の二項対立的(バイナリー)な見方を取り払い、さまざまなトピックを「ノンバイナリー」に捉え直していく。 vol.4 思いやり/思いやりの空回り Q1. “思いやり”って何だろう? 「今の言動、ちょっと思いやりにかけていたかな?」と反省した経験がある方も少なくないのでは? “思いやり”とは広く、他者の身の上や心を汲み取り気を配ることと定義される。相手に共感し不快にさせないよう自らの言動を調整する、そんな姿勢は日常生活のあらゆる場面に散りばめられている。人間は触れ合いがなければ生きていけない生き物だと言われているけれど、そんな私たちが社会を成して共生していくためには、やはりある程度の思いやりが不可欠なのではないだろうか。 振り返ると、そんな“思いやり”への私の心持ちは、日本で住んでいたときと海外で暮らすようになってからとで変化してきた感覚がある。 過去の記事 でも触れたけれど、日本社会には古くから島国特有の集団主義や、協調性を重んじる精神が根付いているとされる。だから日本で暮らしていると、お互いを思いやる姿勢がより一層重要視されている印象を受けるのも納得がいく。 自分は留学をきっかけに初めて海外生活を経験し、それから大学を卒業して海外で働くようになった。今でこそ慣れたイギリスでの暮らしだけれど、最初の頃は、日本の暮らしで培った“思いやり”の姿勢ではうまく現地に馴染めず、空回りしてしまうことも少なくなかった(その背景には自身の性格も大きく影響していた。詳しくは後述する)。そうした経験を重ねた結果、現在では自分が置かれた文化圏や 環境 に応じて、思いやりの作法を柔軟に使い分ける感覚が身についたと感じている。 Q2.

“思いやりの空回り”って何だろう? “思いやり”はただ相手に優しくするだけでなく、相手が何を必要としているのか考慮して自分の行動を柔軟に変えること。そのため文化的背景やコミュニケーションの違いによって、誤解が生まれることも大いにあり得る。例えば、日本の社会では言葉にしなくとも「察する」ことが求められる風潮が強いけれど、異なる文化圏においては、「察する」文化から派生した曖昧さが、意思の欠如として捉えられてしまうこともあるのだ。 海外で暮らした経験がある方のなかには、「日本にいるときよりも、自分の意志・意見をしっかり示す必要がある」とアドバイスを受けたり、そのことを身をもって実感している人も多いはず。渡英して間もなかった頃の自分も、文化的背景の違いからくる“思いやりの作法の違い”のために苦労したことを覚えている。相手のために...



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とした言動が、期待のすれ違いから誤解されてしまったり、自分の意図が適切に伝わらなかったりして、“空回り”してしまうことがあるのだから難しい。 特に自分は幼い頃から敏感な子どもで、学生時代は誰にも嫌われたくないという気持ちが強く、常に周りの目を気にしがちだった。そのせいで事あるごとに自分を差し置いて周りを優先する、いわゆる「ピープル・プリーザー(People Pleaser)」の傾向が目立っていたように思う。当時の自分の“思いやり”は、相手を気遣う気持ちからというよりも、結局は周りからどう見られるかばかりを気にした表面的なものに終始していたのかもしれない。 そんな自分の“気にしい”な性格を契機とした過剰な気遣い、それにやっと気がつけたエピソードがある。渡英して程なく ロンドン で出会い、今でもお世話になっている先輩に食事をご馳走になったときのこと。ある出来事を反省し、申し訳なく思っていることを相談していた自分に先輩は、「根底に思いやりがあるのはわかる、でもその“思いやり”が少し行き過ぎてしまって、かえって相手が気まずく感じたり、謙遜の言葉の重みが薄れてしまっているかもしれないよ」とアドバイスをくれた。 当時の自分には、愛のある先輩のお言葉がグサっと刺さりへこんだ出来事だったけれど、それはピープル・プリーザーな自分の価値観を見直すきっかけになった。気を遣いすぎることが逆効果を生むことに改めて気づかせてくれた、貴重なアドバイスに今では感謝している。最近では周囲を気にしすぎるあまり自分を見失うことがないよう、物事を決断する前に一度立ち止まることを心がけている。 Q3. “思いやり”と”思いやりの空回り”はどうやって仕分けられてるの? “思いやり”の形は文化や社会のコンテクストによってさまざまであり、さらに個人によっても受け取り方が異なる。だからこそ、一体どこまでが“思いやり”として認識され得るのかは非常に不明瞭だ。ときに空回りしてしまう背景には、馴染みのある文化やコミュニケーション方法のズレ、よかれと思ってした言動が過剰な気遣いとなり負担を与えてしまう、などといった原因が考えられる。 感じ方や価値観は千差万別だから、ありとあらゆる局面で応用が効く万能な“思いやりの作法”は存在しないし、同じ理由から空回りを完全に避けることは難しい。一方で、心をチクリとさせるような言葉があたかも“思いやり”を装って使われるケースもあって、そんな場合は純粋な気遣いまたは嫌味を込めたものなのか、判断が困難だったりもする。 結局、“思いやり”を感じるボーダーは人それぞれなので、明確なラインを引くことはできない。けれど自分なりの気遣いだから、と自らの基準で相手に思いやりを押し付け、それが空回っている可能性に気づけないと、的外れな状態が続いてしまう。 幸い私は的外れな思いやりを指摘していただく機会に恵まれていたけれど、大人になってから率直な意見を得られるチャンスはそう多くない。だからこそ、「自分が正しい」と思いがちな物事に対しても常に疑問の余地を持ちつつ、多様な視点を柔軟に取り入れていける自分でありたい。オープンマインドな姿勢で、「その思いやりは一体誰のためでどこから生まれたのか」振り返ってみることでより多角的な視点から相手に寄り添い、気遣うことができるかもしれない。 Photos: Courtesy of Taira Text: Taira Editor: Nanami Kobayashi READ MORE.